
2025-04-30
80代漫画家の挑戦
バロン吉元先生・白井勝也社長スペシャルタッグ再び
劇画ブームの全盛期を築いた伝説の漫画家・バロン吉元先生と、かつてバロン先生の担当を務めたヒーローズ社長の白井勝也さんのスペシャルタッグによって連載が始まった、寺山修司原作の漫画『あゝ、荒野』(「コミプレ」連載/ヒーローズ)。その記念すべき第1巻が5月9日に発売されます。発売を記念して、バロン先生のこれまでの経歴や、アメリカでのエピソード、さらに『あゝ、荒野』誕生秘話と作品に込めた思いについて語っていただきました。
❏プロフィール
❏「バロン吉元」は突然に 日本で4人目の男爵誕生
❏アメリカで邸宅購入!きっかけは手塚治虫先生
❏マーベル・コミックから海外進出!待ち構えていたのは厳しい現実
❏画家としての新たな挑戦
❏80代漫画家の挑戦は続く 持ち込みから始まった『あゝ、荒野』連載
❏エネルギー満ち溢れる画風 ~寺山修司からのインスピレーション~
❏刺激・恐ろしさ・面白さ・美しさ すべてが凝縮された一冊
プロフィール

バロン吉元(ばろんよしもと)
『柔俠伝』『黒い鷲』などで知られる、日本の劇画ブームの全盛期を築いた漫画家のひとり。
画家としても国内外問わず活躍。
2024年より『あゝ、荒野』の連載を開始。

白井勝也(しらいかつや)
ヒーローズの代表取締役社長。小学館「ビッグコミックスピリッツ」の編集長を10年間務めた。
バロン吉元とは『黒い鷲』で編集を担当。
2024年よりバロン吉元とタッグを組み、『あゝ、荒野』の連載を開始。

八木泉(やぎいずみ)
丸善ジュンク堂書店コミックジャンルアドバイザーチーフ
1999年ジュンク堂書店入社。千日前(旧難波)店・梅田店・三宮店を経て現在ジュンク堂書店池袋本店コミックフロア長・全店のコミックジャンルの仕入・店舗指導を行う。
「バロン吉元」の名は突然に 日本で4人目の男爵誕生
今日は5月9日に発売される『あゝ、荒野』について、バロン吉元先生ご自身や、作品についてなど、お話をお聞きします。 まずは、バロン先生の今までの経歴を教えて下さい。
「週刊漫画アクション」で『柔俠伝』を連載していました。白井さんとは「少年サンデー」の『黒い鷲』で一緒に。
1973年だから、僕が30歳で先生が33~34歳ぐらいかな。「週刊漫画アクション」で大人気だった『柔俠伝』を見て、「少年サンデー」でも連載できないかと、お願いに上がって。
若かったね。だから今日はその時の気持ちでお話しします。
そうなんですね。1973年の気持ちでお願いします。
「バロン吉元」ってペンネームは、当時の「週刊漫画アクション」の編集長だった清水文人さんがつけたものなんですよね。
1967年に「漫画ストーリー」で発表した読切『ベトコンの女豹』で初めて…というか突然「バロン吉元」という名前が出たんですよ。本名で活動しようと思っていたのに、断りもしないで勝手につけられました。本名じゃ地味過ぎると。
先生の本名、吉元正だから、「銀行に書いてあるような名前じゃ売れない」と。普通、大事なペンネームを決めるときは相談するのに。
断りなしにペンネームを決められてしまうと、「なんだこりゃ」って感じで、本当に頭にきたんですよ。
「バロン」という名称の由来はどこから来たのでしょうか。

「バロン」という言葉には「男爵」という意味があります。
日本にはバロンと呼ばれた有名人がこれまでに3人。バロン滋野・バロン西・バロン薩摩っていうの。バロン滋野はフランス陸軍航空隊のエース。バロン西はオリンピックの馬術で優勝して、バロン薩摩はフランスで文化的に貢献した。
編集部へ「人の名前を勝手に変えるんじゃねえよ!!」と怒鳴り込みに行った私に、「バロンとは男爵の意味で、日本で言うところの侍大将クラスなんだぞ。日本には非常に有名な男爵がいたんだ」と、清水さんにそう説得されて、だんだん怒りが収まってきました。
日本語で言うと「吉元男爵」。納得できますね。
日本で4人目の男爵ってことですね。
アメリカで邸宅購入!きっかけは手塚治虫先生
80年代にアメリカに移住された話もお聞きしたいです。
アメリカのロサンゼルスに家を買いました。しばらく日本と行き来する生活を送っていましたが、続けて滞在したのは最長1年くらいです。
その頃に海外に移住するような人はいたんですか?
これはね、手塚治虫先生の影響なんです。
手塚先生と漫画家・編集者を含めた大体10人ぐらいで、サンディエゴ・コミコンに行きました。そこでマーベル・コミックの編集長を紹介されて、早速アメリカで仕事をしたくなってね。
アメリカからの帰りの飛行機の中で、隣の席にいた手塚先生が「時々アメリカに行く漫画家同士5人ぐらいでお金を出し合って、ロサンゼルスにプール付きの邸宅を買おう」と。 私は大賛成!それは素晴らしいアイデアだなと思いました。
※サンディエゴ・コミコン:1970年以来、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴで毎年開催されている非営利のマルチ・ジャンル・娯楽イベント
誰か集まったんですか?
あとから手塚先生から連絡があって、「あの計画はなしにする」って。手塚先生はモンキー・パンチさんやら永井豪さんやら、私以外に4人に声をかけたらしいんだけど、断られたそうなんですよ。まあ、しょうがないよね。
手塚先生はそんなことを言ったのは、ロサンゼルスにトキワ荘みたいな、そういうものがあって面白いんじゃないかっていう、独特の発想だと思います。
それはそれで面白いですね。 それでも、アメリカへの移住はやめなかったんですか?
その当時、東京に家を二軒持っていたんで、そのうちの一軒を売って、アメリカの一等地に家を買いました。
つい先日までは先住民族とメキシカンが住んでいたような自然豊かなところで、535坪あって、とりあえず一人で住むには十分でした。
一人で、非常に寂しかったです。友達というとスカンクが寄ってくるくらい。そのスカンクと決闘した日のことは忘れられません。日本で連中と決闘したのは私だけでしょうね。スカンクを追い払うために、棒を振り回していたら、大砲を打たれて。臭いが家の中に全部くっついて、最悪でした。

やっぱり、臭いですか?
ダウンタウンへ10日間くらい避難しました。でも帰って来たら、まだ臭いは取れていませんでした。
マーベル・コミックから海外進出!待ち構えていたのは厳しい現実
アメリカにいるときにマーベル・コミックに作品を持って行ったんですよね。
マーベルに持っていったんですか?
スタン・リーも私を歓迎してくれていたし、マーベルで仕事をもらったことはもらったんだけどね。読切作品の発表にとどまり、残念ながら連載は実現しなかった。もし連載ができたら、アメリカにずっと住んでしまおうという気持ちがあったんだけど。
今となっては帰ってきていただいて大変嬉しいですけど、その時はマーベルで仕事をしたかったんですね。でもそんな海外でも活躍される方が80年代でおられたことが驚きなんですけれども。
その当時は、ジャパン・バッシングが激しかった頃でした。現地での生活の中で様々な差別も受けたし。そういった中でも、作品を描かせてもらえたことは嬉しかった。アメリカでも日本でも仕事ができたことに自信がついてね。
そこで私は、マーベルが喜んでくれるだろうなと思って、アメコミそのもののタッチで漫画を描いて持っていったんだけど、そういう漫画いらないって言われたんだ。
日本の漫画が見たかったのかもしれませんね。
サムライ・ゲイシャ・カミカゼ…そういった日本のいかにもなステレオタイプを散りばめた漫画を求められました。でも私は、アメリカではアメリカン・コミックスで勝負がしたかったんです。それは幼いときに、進駐軍から10セントコミックの『バットマン』を貰った時からの夢でした。日本人だからって、いかにもなステレオタイプを要求されたことが悔しかったんです。でも今思えば、日本で発表していたような劇画を、マーベルでそのまま描けばよかったんだよね。
もしそういうスタンスで時代劇を描いていたら、『アベンジャーズ』にサムライのヒーローがひょっとしたら登場していたかもしれない。
今、『SHOGUN』がヒットしているから、発想が少し早かったんですね。

最終的にはアメリカから1年で戻られたんですよね。
アメリカでの連載から、また違った方向に興味が転換していきました。
アメリカで、もし連載ができていたら、マーベルの主力作家になっていたかもしれないですね。
画家としての新たな挑戦
バロン先生は途中で画家になられましたよね?
自分が描いてきた劇画を、一枚の絵で表現してみようと思いました。だけど、こういう絵柄だったら、バロン吉元だとバレてしまうかもしれない。だから名前を伏せて、絵画制作を始めました。
最初はひとりで、どこに発表するでもなく、ただ楽しくて描いていた。そのうち、その絵がどの程度評価されるか関心がわいてきて、一部の人にしか知らせないような規模ですが、展示を開催したりました。もしかしたら見破る人がいるかも知れない、と思ったけど、なるべく劇画から離れようという気持ちで作品を描いていたから、正体がバレないことにそれなりの自信がありました。90年代前後から、「龍まんじ」という雅号を使うようになったんですよ。それを約25年間続けました。娘のエ☆ミリー吉元(リイド社・トーチ編集部)が私のマネジメントを2015年に始めて、以降はバロン吉元に統一して、絵画を展示する機会も増えましたね。それらをまとめた『バロン吉元画集 男爵』(パイインターナショナル刊)という本も出ましたし。
よく正体を隠し続けることができましたね。
2003年に大阪芸術大学で教授をするようになって、教授室で大きな絵が描けるようになった。退官後は広いスペースと倉庫を借りて、行ったら大体1週間か10日ぐらい籠もって、そのくらいの時間で一つの作品を描き上げていました。高さ2m、幅は1〜5mまで、大作が中心です。
描かれるペースが早いですね。何ヶ月もかけて描くのかと思ったら1週間!
80代漫画家の挑戦は続く 持ち込みから始まった『あゝ、荒野』連載
新型コロナウイルスが流行して、アトリエに行けなくなったと伺いました。
そうですね。
その時期はみんなしんどい思いをしたと思うのですが、その時バロン先生が漫画を描こうと思ったというお話を聞いて、私は感動しました。アトリエに行けなくなり、お家で寺山修司さんの本を読んで、これで漫画を描こうと思われたとお聞きしましたけど。
私はこれまで、自分自身の魂をぶつけるために作品を描き続けてきました。アトリエで絵を描いていたのも、売るために描いているわけではありません。描きたいから描いていたわけで。
寺山修司さんの『あゝ、荒野』を読んでいるとき、登場人物が非常に魅力的に感じた。すぐにキャラクターとして、私の中でぐんぐん育ち始めました。もうそれを絵にしなきゃと、じっとしていられなくなり、再び劇画を描き始めたわけです。
それが今連載されている『あゝ、荒野』につながるのですね。
でもこうやって一人で描きまくったって、しょうがねえなって。
そんな時、かつて私の担当編集をしていた白井さんが、頭の中でチラチラと浮かんでいました。私がかつて一緒に仕事をした編集者のうち、まだ業界にいる方は他に誰がいるだろうと。真っ先に浮かんだのは白井さんでした。
バロン先生の担当経験がありますからね。
出来上がった原稿を白井さんにちょっと見てもらおうと思いました。
長い間、劇画から離れて、絵画をずっと描いてきたのですが、描きっぱなしだったので。この作品は描きっぱなしにしたくないなと。作品として世に出したいと思ったんです。
それで白井社長のところへ?
いきなり電話かかってきて「ちょっと時間ある?」って言うから、何を考えているんだろうと思いまして。まさか持ち込み原稿をなんて考えてもいませんでした。ややこしい相談とか、病気の話とか、誰か医者知らないかとか、そういう相談だろうかと、いろいろ考えながら、懐かしいから会ったら、原稿を持ってきて、「これはどうだろうか」と相談されました。

これすごいことじゃないですか?80代で持ち込みだなんて聞いたことがないです。
僕が82とか83歳ぐらいの時に原稿を持ち込みされて。実際に読んでみたら、これが引き込まれるものがありました。
ただ、僕は現場の編集長じゃないから、僕の中の感覚がずれていないかをヒーローズの編集長をはじめ編集部の何人かに読んでもらって確かめたのですが、面白いと好評でした。僕の感覚はまんざら的外れではありませんでした。
若い人たちがこの絵に新鮮さを感じてくれたので、とんとん拍子で話が進みました。
そういうふうに受け取られるとは思わなかったので、非常にありがたかったです。適当な返事さえもらえれば、それでオーケーというぐらいの気持ちでいたので。ありがたいなと思いましたよ。
エネルギー満ち溢れる画風 ~寺山修司からのインスピレーション~
今この原稿を見せていただいて、デジタルで描かれる方が多い中で、このようにアナログで原稿を描かれていることに感激しました。あと、原稿にはトーンをほぼ使わないで、全部手描きで描かれているんですよね。原稿を見てびっくりしました。
全部一人でやっているんですよね。
生で見てほしいぐらい、いや、実際に飾って、見る方がいいですよ。すごい描き込み。1ページを描くのもとても早いんですよね。

若い時は月に200〜300ページ描いてた時もありましたが、今は月に50ページぐらいなら描けますね。
そんなに早く描ける漫画家さんいないですよ!月50ページも。
ただ、どんどんやっているうちにね。アシスタントも使っていないし、ひとりだと24ページ描くのに2週間は必要だなと思うようになりました。
でもね、24ページで2週間もすごいです。現役の漫画家さんの中でも早いほうです。皆さんはアシスタントいますもんね。あとデジタル化が進んでいますし。 この1960年の新宿も、当時の写真をお持ちなんですよね。
編集者と一緒に新宿へ繰り出し、たくさん撮りだめていた当時の資料写真が役に立ちました。多少は省略したり、面白いところがあったら参考にして、そのまま描いたりしていますよ。
この絵も生で見たらびっくりしますよ。これ、私聞いたんですけど、この靴が新品のように描かれていたのに、娘さん(現マネージャー・エ☆ミリー吉元さん、リイド社・トーチの編集部)から「汚い方がいい」と言われて、ボロボロの靴に描き直したんですよね。
この絵、なんで銃弾を受けているんですか?
これは、「新宿」に撃たれているんですよ。当時の新宿は、飛んでくるゴミが銃弾に思えるぐらいの緊張感がありました。そういう街ってそうないよ。新宿はね、60年頃はちょっと怖かったので、弾が飛んできてもおかしくないような雰囲気で描きました。そんな綺麗じゃない新宿を日々ランニングするキャラクター「バリカン」の靴は、娘の言う通り、綺麗なわけないですよね。
なおさら靴は新品じゃない方がいいですね。ボロボロのほうが雰囲気に合っています。描き直した方がいいなんて私だったら到底言えませんけど、描き直した甲斐はあったと思います。

このバリカンっていうキャラクターは、耳が大きいでしょう?私もね、耳が大きいんです。歳を重ねるごとにどんどん顔が痩せるけど、耳は痩せない。
結構福耳ですよね。
今でもここまで現役でいられるのは、この耳のおかげですね。バリカンと、新宿の一部を合わせると私自身という感じ。
今の若い漫画家さんが描いたと言っても全然違和感ないような色使いですよね。
シュールですね。
やっぱり寺山修司作品からインスピレーションを受けて、それを絵にすると、どういう風になるかな…と考えながら描いています。
これは本当に感動しました。この筋肉にも青色を入れているところがかっこいいんですよね。画家だった時の画風も活かされているように見えます。
コレクターがいるくらいですから。

刺激・恐ろしさ・面白さ・美しさ すべてが凝縮された一冊
現在、連載が電子でしか出ていなかったものが紙の単行本で発売されますが、きっと紙の方がもっと先生の作風や面白さが出るんじゃないかなって思います。A5版で、ちょっと変形で大きめのサイズなんですよね。出来上がりが楽しみというか。5月9日の発売まで待ちきれません。
早いですね。連載からは1年経ってないと思います。
再デビューみたいな気持ちで挑みました。描きながら自分のエネルギーがどんどん湧き上がってくる。それがお金になるとは全然思っていませんでした。
今は「人生100年時代」なんて言われますけど、生きているだけでなく、元気で仕事をするバロン先生にふさわしい言葉なんじゃないかと思います。「人生100年時代」を代表する漫画家として、さらに活躍してほしいです。この年齢で新連載を始める人っていないと思います。
この作品には、私が体験した新宿のエキスがエネルギーとなって詰め込まれています。私自身も上京して刺激を受けた街でした。遊ぶところは、まず新宿でした。友人たちともよく新宿に遊びに行って、怖い目にも遭ったけど、だから作品にも怖さが出ているわけですね。
新宿でも、区役所通りから入ったゴールデン街ってところに小さなバーが密集していて、みんなそこで酒を飲み出すから喧嘩になる。そういうこともよくありました。
若い頃、新宿に感じていた、刺激・恐ろしさ・面白さ・美しさ。新宿にしかない、エネルギーになりうるものが確かにあった。ここは日本というより、新宿という一つの独立国みたいな印象が、当時の私の中にありました。 新宿という街自体がエネルギー源となって、キャラクターを通じて、その向こうにいる現代の読者を刺激してくれるということを、この作品で私は表現しているつもりなのですが、若い人たちにこのエネルギーが伝わってくれれば嬉しいなと思います。
今は日本の元気がなくなってきている気がします。『あゝ、荒野』を通して、若い読者がまた元気づけられるような、そういう作品でありたいと思います。 5月9日はどうかよろしくお願いします。
商品情報
バロン吉元先生・白井勝也社長
直筆限定特典カード

5月9日発売のコミックス単行本を丸善ジュンク堂書店店頭・丸善ジュンク堂書店ネットストアで予約・購入いただいた方に3枚セットで差し上げます。
※なくなり次第終了となります。
書店員より
この作品を読んで欲しい方々に届けたいです。「バロン先生の新作出るよ」って言ったら、「え?バロン先生、また漫画描くの?見たい!読みたい!」という方がたくさんいらっしゃると思います。そういう方に絶対届けたいなので、どうしたら届くかな、ということをいつも考えていました。
丸善ジュンク堂書店は、藤子先生とか手塚先生のコミックスがたくさん売れるようなお店なんです。だから、バロン先生の漫画を楽しみにしている方がたくさん来ると思います。今回のインタビューを通して、バロン先生のエネルギーを皆様に伝えられたらと思います。
丸善ジュンク堂書店
コミックジャンルアドバイザーチーフ
八木泉
あゝ、荒野・バロン吉元先生作品
バロン吉元先生関連情報
@comiplex
バロン吉元先生の絵画制作や、
打ち合わせ風景など大公開!
Comipleaking Downオーディション 佐藤二朗vsバロン吉元
Vol.1
Vol.2
撮影場所
ジュンク堂書店 池袋本店 9階イベントスペース