北海道・小樽に宣教師一家の子として生まれ、日本人に親しみながら育ったオーテス・ケーリ。アメリカの海軍日本語学校でドナルド・キーンらとともに学んだ彼は、太平洋戦争開戦後、情報将校としてホノルル日本人捕虜収容所に派遣され所長となる。そこには、太平洋の諸島で捕虜となった日本兵たちが収容されていた。徹底した軍事教育によって心を閉ざし敗戦や懐柔に抗う日本兵捕虜たちであったが、ケーリの話すべらんめえ調の流暢な日本語で捕虜たちと対話を重ねるうち、ぽつりぽつりと、彼に心を許す日本兵が現われ始める。やがて捕虜たちは「敗戦を受け入れることでこれ以上日本の民を傷つけるまい」という思いと、人間として生きることに対する自発性を取り戻し、敗戦の状況を本土に伝えるための喧伝新聞やポツダム宣言の和訳ビラの協働制作へと至った。戦後、ケーリは占領軍として高松宮への提言を行うなど、民主化にむけて尽力し、同志社大学アーモスト館の館長として若者たちの教育にも携わる。日本に親しみをもって育った米兵の視点から、敗戦と戦後の日本を眼差したルポルタージュ、待望の復刊。新書版解説・佐藤卓己