1887年に帝政ロシアのユダヤ人ザメンホフが、母語の異なる人どうしの相互理解を願って考案した国際語エスペラント。国家や民族の枠を超えた草の根のコミュニケーションを可能にする中立的言語とその普及活動は、ロシアや欧州各国の言語事情と民主主義の成熟度に応じて受容されていく一方で、疑念と反発を招き、とりわけヒトラーとスターリンの独裁下で苛烈な弾圧にさらされる。エスペラント運動がたどった苦難と再生の道のりと、この言語の理念に魅せられた話者たちの運命を克明に描いた、エスペラント史の最重要文献。図版多数収録。
【目次】
はじめに
◆1 新しい言語に向けられた疑念
1-1 ザメンホフとエスペラントの誕生
1-2 帝政ロシアの検閲下で味わった産みの苦しみ
1-3 西欧への進出
1-4 エスペラントの思想的側面
1-5 第一次世界大戦以前に直面した障害
1-6 国際連盟におけるエスペラント
1-7 労働者と「中立主義者」
1-8 一九二〇年代の迫害
◆2 「ユダヤ人と共産主義者の言語」
2-1 ヴァイマル共和国におけるエスペラント
2-2 新たな敵の台頭
2-3 「均制化」
2-4 エスペランティストのナチ党員たち
2-5 禁止への道
2-6 エスペラントは単なる言語か
2-7 ナチ・ドイツのモデルにならって
2-8 中立主義エスペラント運動を健全化した教訓
◆3 「プチブルとコスモポリタンの言語」
3-1 ソ連におけるエスペラントの繁栄
3-2 分裂と終焉
3-3 社会主義と国際語
3-4 ソ連でエスペラントが死滅した理由
3-5 第二次世界大戦の後に
むすび
訳者あとがき
参考文献
関連年表
略語一覧
注
事項索引
人名索引