【前言より】(抜粋)
まず、本書の書名【香港粤劇研究――珠江デルタにおける祭祀演劇の伝承――】について、説明する。戦前においては、粤劇の劇団は、広州、香港、澳門のいわゆる「省港澳」を自由に移動して、共通の劇目を演じてきたが、新中国成立後は、広州と香港・澳門は分断され、広州の粤劇は、政府の「破四旧」の方針のもと、封建制の残滓とみなされた劇目が淘汰され、所謂、改良劇目のみが上演されるに至った。これに対して、香港、澳門の粤劇は、政治の影響を受けることなく、旧来の伝統を維持し続けた。かくして両地の粤劇は、はなはだしく面目を異にするに至った。本書が研究の対象としたのは、大陸の改良粤劇ではなく、旧来の伝統を保っている香港粤劇の方である。書名にあえて「香港粤劇」と称したのは、大陸粤劇と区別する必要があったからである。また副題に「珠江デルタにおける祭祀演劇の伝承」と題したのは、旧社会の慣行である祭祀演劇が大陸では、「宗教迷信」として禁止されて消滅し、香港地区のみに生き残ったからである。香港では、粤劇団は、劇場での上演のみならず、域内の80以上にものぼる郷村において、神に献上する祭祀の一部として粤劇を演じている。其の年間上演日数は、300日に達する。劇場演劇をしのぐ日数であり、劇団と俳優は、これに依存して生活している。この点においても、香港粤劇は、戦前からの祭祀演劇の伝統を継承している。つまり、演劇の環境、機能、劇団、俳優、劇目、劇本のすべてにわたり、戦前と変わらぬ自由主義経済という大状況を背景として、香港粤劇は、今日まで伝統を守り続けてきたと言えるのである。