驚愕瞠目の「鷗外」論
『舞姫』が『青年』が『雁』が『山椒大夫』が『澁江抽齋』が脱構築され現前化する。鷗外は、男女の恋愛、夫婦の性愛の関係性を、決して「観念」としては捉えない。恋愛主体となって肉体に対する感応をもって、主体と客体との区別がつかない関係性を構築し、言説化している。本書は、既婚者である筆者(恋愛主体)を含めた市井に生きる夫婦間における性愛行為の「愛のディスクール」を、鷗外の小説群から読み解いてゆくものである。「わたしは、真の独自性の場が、相手にもなければわたしにもなく、二人の関係にこそある」とロラン・バルトは言った。吉本隆明はバタイユ論において「人間の性行為は、醜悪で、卑猥で、隠したくて仕方がないところに付いた器官を使って行われる。それなのに人間は性交で快美の極限を体験する」と言った。バルトから50年、鷗外から100年の時を経て、「愛のディスクール」における「恋愛」の「観念」はいかなるものなのか、を見届けようとする試み。