西洋美術が俳句になった! 「美は人を沈黙させる」が、沈黙の中には無数の言葉がざわめいている——句を読んで楽しく、推理して楽しく、注釈を見てまた楽しい、一読三嘆、瞠目の新句集。
星月夜ヴァン・アレン帯磁気嵐
マリヽンの逆さまつ毛や曼殊沙華
静物は甘い死の比喩 セザンヌの林檎かなしむ
女人微笑むかつて火柱すでに霧
地球史の涯の秋なりキリン燃ゆ(本書秋の部より5句)
俳句という「天來の獨樂」、すなわち思いがけなく入手した私の玩具の新展開である。むろん「遊び」だ。だが、「真剣な遊び」である。俳諧の根底に「遊び」があるのは周知のことだが、そもそも、ホイジンガのいうホモ・ルーデンス(遊ぶ人)たる人間の文化は「遊び」から生れるのだ。
遊びにはルールが必要だ。ルールは二つ。
一つ、有季定型とすること。
二つ、作品や作家を示唆するヒントを必ず入れること。
有季にすることで泰西の文化と日本の文化が接触し、接触しつつ共存することで、互いが自分の許容度を少し拡張し、逆に相手を少し異質化するだろう。
美術作品はあくまでモチーフなので、句は必ずしも対象を描写する必要はなく、発想を自由に飛ばしてもよい。ただし、野放しの自由は独り善がりになる。独り善がりじゃ遊びにならない。だから二つ目の縛りを加えた。鷹を訓練する際に鷹が飛び去ってしまわないように足に結びつける「綜緒」(柳田国男「桃太郎の誕生」)みたいなものである。想像力の勝手な飛翔を自分で抑制するのだ。
句集には注釈をつけて、作品篇と膨大な注釈篇の二部仕立てにする。モデルは若いころ読んだ入沢康夫の詩集『わが出雲・わが鎮魂』。句集としては異例のものになるだろう。(本書「あとがき」より)