「サーファーの聖地」で見出された「完璧ではないが続く関係」。
最新の生態学理論も援用しつつ「かかわり方」の複雑系を探る。
千葉県長生郡一宮町、「サーファーの聖地」と呼ばれるこの町で、毎朝サーファーたちが海に入っていく。波を待ち、波に乗り、また波を待つ。彼らの一日は、陸に上がったところでは終わらない。出勤前に波をチェックし、週末は海岸を歩き、畑に出て土にふれる。サーフィンとは、どうやら波の上だけの話ではないらしい——著者がこの町でフィールドワークをはじめたときの直感である。
2020年、1か月2万円で古い倉庫を借り、サーファーたちと数か月を過ごした。見えてきたのは、「環境保護」の美しい物語ではなかった。月一回の「ビーチクリーン活動」は町の制度の縁に静かな居場所を得たが、参加するのはサーファーばかりだった。四万筆の署名を集めた「ヘッドランド建設反対運動」は、「昨日今日見てきただけの人間の言うことだ」というひと言で退けられた。
一方、地元の元農家から借りた荒れ地に通うサーファーたちの「いい加減さ」が、放置されていた土地を少しずつだが農地に戻していった。
同じサーファーたちが、同じ町で、同じ海を前にして、場面ごとに違う関係を生きていた。違っていたのはサーファーの側の論理ではない。何と、どこで、どのように出会ったのかである。
本書は、波と暮らすなかで培われたかかわり方が、ゴミ拾いや署名運動や有機農業に持ち出されたときに何が起きるのかを、ブルーノ・ラトゥールの「アクターネットワーク理論」とティモシー・モートンの「ダークエコロジー論」を手がかりに記述したものである。合意でも対立の解消でもない、にじむような決着。それでも、すべてが続いている——そのような関係の形を本書では「ボロボロの連帯」と呼ぶことにした。
サーファーは言う。「別に、大したことはやってないよ。ただ、海に入って、ゴミ拾って、畑やって、それだけ」と。本書は、その「それだけ」のなかに何があるのかを探る試みである。海辺の話に閉じない。職場でも家庭でも地域でも、完璧ではないけれど続いている関係について考えるための一冊である。(みやざわ・ゆうし)