第Ⅰ章 ネグリのほうへ――「真の政治は形而上学である」
トニ・ネグリを読むために
帝国とマルチチュード
ある唯物論的な笑いと美
政治を追い詰めるレーニン主義者スピノザ
歴史のなかの『レーニン講義』、あるいは疎外なきルカーチ
「我々はみなネグリ主義者である」、あるいは分離の論理の行方
第Ⅱ章 様々なマルチチュード――「一」は割れずに緊張を生む
リスク人民戦線
いくつかの存在論的空虚について
貨幣の帝国循環と価値の金融的捕獲
主体から主体――政治において、我々はみなシュミット主義者であるのか?
今日における金利生活者の安楽死
第Ⅲ章 ヨーロッパという賭金――「主権」の上空と底で政治は闘われる
亡霊の政治―「ヨーロッパの再生」を問う
論理的な暴動とマルチチュディネスクなコギト
現実主義的革命家と種別的知識人
ヨーロッパの〈新左翼〉は?
〈現代アナーキズム〉あるいは〈実践〉の迷走
第Ⅳ章 ランシエールの傍で――語る「私」をめぐって「階級闘争」がはじまる
Verkehrung(転倒/逆転)の冒険――ジャック・ランシエールの政治的存在論
〈無知な教師〉はいかにして〈僭主〉に教えたか
スキャンダルとしての民主主義
「すべては政治的である」のか?
第Ⅴ章 フーコーとともに――反牧人革命は来るのか
〈実践〉概念の相克――フーコー最後の問題系と六八年
〈我々とは誰か〉あるいはフーコー最晩年の〈外の思考〉
理性の限界を「散逸」させよ
間奏
代書人ボブあるいは〈誤訳〉
ローリング・ストーンズと共産党
第Ⅵ章 日本のなかで――「1968」と「2011」を跨ぎ、「社会的なもの」に抗する
「決めない」政治と金融資本主義
社会は防衛しなければならないのか
社会的なものの行方
六八年革命は「存在」しなかった――小熊英二『1968』
〈文化〉果てるところに待ち侘びる〈党〉――すが秀実『吉本隆明の時代』と長原豊『われら暇疵ある者たち』を横断する
『資本論』から何を再生させるべきか――スラヴォイ・ジジェク『終焉の時代を生きる』
反乱が事故として連鎖反応的に生起した年をどう捉えるか――スラヴォイ・ジジェク『2011』
2011の反乱 その敗北のあとに――想田和弘監督『選挙2』
エピローグ
「国家の破滅は言葉遊びにすぎない」――マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督『フォンターナ広場:イタリアの陰謀』