F. スコット・フィッツジェラルドの作品には、喪失や死者のテーマがなぜか頻繁に登場する。それも、知名度の高い短編作品にはほぼ例外なくそれらが描かれている。死者とは過去に失われた存在であるという意味で、この2つは陸続きのテーマなのだが、問題は彼の作品がなぜこのような傾向を有するのか、という点だろう。人間、誰もが最後は死んでしまうのだから、作品に死者が登場するのも当然だと考えるべきなのか。いや、そんな普遍化が罷り通らないほど、この作家は死者と喪失にオブセッション的に囚われてしまっている。このテーマがなぜこの作家の心を捉えて離さなかったのか。そのような疑問点が、本書を出版する直接的な契機となった。これまでも同様のテーマに着目した研究は存在しているが、本書のように短編作品に特化して考察しているものは、存在していないように見受けられる。
フィッツジェラルドの作品について、これまでの研究は、中長編を惑星に見立てて、短編作品を惑星の周辺を旋回する衛星に見立てる傾向があった。本書は、そんな短編作品にフォーカスした論文集なのだが、衛星という言葉からは、どうも短編作品に対する評価の低さが現れているように感じられる。惑星がなければ衛星の存在は闇に包まれたままになることから、なるほど、それだけフィッツジェラルドの中長編が放つ閃光が強烈であるということなのかもしれない。また、確かに一時期フィッツジェラルドは日々の生活費、娘の学費や妻の入院費を稼ぐために短編作品を怒涛の勢いで量産していた時期もあった。批評家はそれらの短編作品を玉石混交とみなしており、短編作品についてそのような評価が定着してしまうのも致し方がないことなのかもしれない。
しかし、である。衛星には衛星なりの存在意義があるのではないか。惑星の周りに浮かぶ衛星に生命の存在といった重大なヒントが隠されていることがあるように、フィッツジェラルドの短編作品をまずは精査することで、中長編の理解が進み、作家的主題の解明に一歩接近できるのではないか。惑星が帯びる強大な引力をかい潜り、急がば回れ、いきなりゴールを目指すよりも、外堀をまずは丁寧に埋めた方が、本丸に案外容易に接近できるのではないだろうか。そのような狙いを持って世に出た本書を通読して頂くことで、フィッツジェラルドの作家的主題に少しでも接近して頂けるのではないかというささやかな期待を抱いている。(「まえがき」より)