
リップグリップ・倉田シウマイの新書探検ナビ
No.5 住民と移民の衝突は止められないのか
新書大好き芸人のリップグリップ・倉田シウマイさんによる、新書好きによる新書好きのための新書探検ナビ。新書を通して、新たな知的好奇心の扉を開いていく連載記事です。第5回のタイトルは、「住民と移民の衝突は止められないのか」。ナガノさんの『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ 8』(講談社)で描かれた内容を元にした『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』について、毛受敏浩さんの『移民1000万人時代 - 2040年の日本の姿』(朝日新聞出版/朝日新書)を通して読み解いていきます。
※本稿には『映画ちいかわ』のネタバレが含まれています
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』(以下『映画ちいかわ』)は移民問題を描いた映画である。こう書くと読まれた方はぎょっとされるかもしれません。
しかし同時に、『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』(以下『ちいかわ』)なら移民問題くらい描いていてもおかしくはない、と思われる方もたくさんいるのではないでしょうか。『ちいかわ』は日本人が生活に困窮しながらも健気に幸せを追い求める姿を主人公・ちいかわに託して読むことができます。日本で起きている社会的な問題は作品の守備範囲内です。
しかも『映画ちいかわ』はどう考えても重いテーマを扱っています。例えば、和光大学の沖田瑞穂教授は神話学的観点からこの映画を分析したnoteを、筑波大学の東野篤子教授は国際政治学の視点で『映画ちいかわ』を分析する記事を6つも書かれています。また、ちいかわが島の問題に巻き込まれていく様子が、若者が闇バイトに手を染める様子に似ているという指摘もあります。
『ちいかわ』は移民問題を描くのに向いている。そう私は思います。そもそも『ちいかわ』という作品の魅力は、キャラクターたちが生活に付随する喜びや悲しみ、それも言語化しづらい繊細な感情を体現するところにあります。言葉にならない言葉を発する主人公・ちいかわの儚い笑顔や頬にこぼれる涙に、私たちはうまく呑み込めない現実に対するどう表せばいいかわからない気持ちを投影できる。『ちいかわ』は「大っぴらに言えない」ことを「じんわりと見せる」ことのできる作品なのです。
日本において移民問題はなかなか表舞台に出てきません。なぜなら日本の政治家たちが移民政策に否定的な態度を取るからです。というのも「移民」にはネガティブなイメージがつきまといます。あけすけに言えば、移民とは「日本語が不自由であり、教育レベルが低く、低賃金で働く外国人やその家族(P55)」だという偏見が蔓延している。そんななかで政治家は「移民を増やそう」なんて口が裂けても言えないわけです。それでも日本における在留外国人の数は爆発的に増加しています。この公に言明できない現実が『ちいかわ』の得意とするテーマになったのだと思うのです。
では、『映画ちいかわ』はどのように移民問題を描いているのか。それを説明するには、日本における移民問題がどんなフェーズにあるのかも同時に説明しなければなりません。ここでは日本における移民問題の現状を俯瞰的に解説した新書『移民1000万人時代 - 2040年の日本の姿』(毛受敏浩、朝日新書)を参照しながら、『映画ちいかわ』の表象する移民問題について深掘りしていきます。
セイレーンは明らかに移民だと言えます。セイレーンは島の沿岸部に突如として出現し、その存在を恐れた島民によって捧げられた「味が濃くて油っこい島の料理」を気に入って、島に棲みつきました。セイレーンが島民にとって脅威でありながら討伐の対象にならなかったのは、不思議な歌声が島の作物の育ちを促したからです。ギリシア神話のセイレーンは歌声で船人を惑わしますが、ナガノさんはその特徴を改変してまで植物を操り、育てる能力をナガノ版セイレーンに与えました。この作物を育てる力は島民にとっての労働力として置換することができます。セイレーンの意志ではないにしろ、歌声で作物の発育を促すことは栽培に携わっていると見なせるからです。このように、外部からやってきて、食をはじめとする文化を気に入り定住し、元からいた住民に労働力を提供する。セイレーンの示したありさまは日本における移民の行動様式と重なります。
毛受先生によれば、日本の在留外国人の数が400万人を超えてなお増え続けるのは人口減少が原因です(P18)。人が減れば労働力が不足するため、日本は国の産業を維持するために技能実習制度や育成就労制度を作って外国から人を集めてきました。移民が日本へ来る理由は経済状況の上昇や日本文化への親愛などさまざまですが、労働力を求める企業が受け皿となってはじめて日本に入国できます(P118)。そこが日本の移民とセイレーンの最大の相違点です。
移民は必ず求められて入国する。対してセイレーンは登場時から島民に恐れられている。この違いは日本人の移民に対する恐怖心を表現しているように私は思います。本来、救いの手であるはずの移民を日本人が恐れてしまうのは、ニュースなどで取り上げられるセンセーショナルな事件や問題が、移民という存在を意識する出発点となるからです。技能実習制度の悪用により移民を搾取してきた実例もありながら、日本人は移民を侵略者に見立てることで被害者意識を育んでいる。そんな現状をセイレーンが表象しているのではないでしょうか。
移民として読み取れるのはセイレーンだけではありません。セイレーンと共に島へとやってきた人魚もそうです。劇中、三匹いるうちの一匹の人魚が島民のヒトハに「しるこサンド」でおびき出され、殺害されています。ヒトハが人魚を襲ったのは、セイレーンによって危篤状態になった友人のフタバに人魚の肉を食べさせ、永遠の命を与えるためでした。食に惹かれて移動し、その身を犠牲にして島民の命を永らえさせる。こう書くと、人魚の境遇が規模や悲劇性に程度の差こそあれど、セイレーンと移民の境遇に相似であることがわかります。そして、人魚は島民を、セイレーンは島を、移民は国を存続させるために犠牲になっていることが、一匹の人魚の死を通して痛感させられるのです。
日本には移民を粗末に扱ってきた歴史があります。日本における「移民政策」と呼ばれない移民政策を推進したのは、1993年にできた技能実習制度です。制度の目的は途上国への技術移転とされていますが、企業は外国から労働者を確保するために利用しました。技能実習制度の下では、外国人実習生の「転籍」が認められず、実習生は最初に受け入れた企業がブラック企業であっても逃れられません。そのため実習生に対する労働基準法違反が多数発生しました。2024年6月には技能実習制度が廃止され、新たに「育成就労制度」が2027年に発足することが決まりましたが、その問題は解決の途上にあります。(P74-78)
そして、ちいかわたちもまた島にとっては移民です。「100倍の報酬」という経済的上昇と「限定島ラーメン」などの食文化におびき寄せられて、ちいかわたちは入島し、島民失踪という事件を解決するためにセイレーンと戦わされます。そしてセイレーンの問題が片付くと、特産品という手切れ金を持たされて船で追い払われる。島民を救った恩人であるにも関わらず、島で暮らし続けるという選択肢がちいかわたちに提示されることはありません。ちいかわたちは普段から短期労働に従事しており、その報酬の妥当性に疑問を持ったことがないために気づきませんが、ちいかわたちは島民らによって命を含めた労働力を不当に搾取されています。
日本に来た移民たちも、その多くが数年という短期間で帰国させられてきました。というのも移民が日本に永住するには在留資格を持ち続けなければなりません。技能実習制度で与えられる在留資格は最長5年です。終了後は日本語能力と職務能力が問われる試験に合格して、特定技能1号を取得して滞在期間を延長しなければなりません。それから特定技能2号も取得すると在留期間の更新に上限がなくなり、ようやく永住の道が開けます。試験の合格にはそれ相応の学習が必要ですが、実習生を受け入れる企業は勉強のサポートを怠り、実習生たちを使い捨ててきました。(P76-80)短期滞在が想定されている移民という点で外国人実習生とちいかわたちは共通しているのです。
つまり、『映画ちいかわ』は移民が移民問題に対処する物語だと言えます。そう考えると、キャンプファイヤーの前でヒトハとフタバに対峙したちいかわが無言だったことが妥当であるとわかります。あの場面は一見すると、ちいかわだけがヒトハとフタバを人魚失踪の犯人だと見抜いており、ちいかわには真相解明の責任がのしかかっているようです。たしかに、ちいかわがヒトハとフタバを告発すれば、一連の騒動に決着がつくかもしれません。しかし、島民がセイレーンと安全に共生できるよう努力しない限りは、フタバが死の際に追いやられたような事故がいつ再発してもおかしくない。つまり、セイレーンの問題の責任は、セイレーンを恐れて対話と相互理解を怠ってきた島民たちにあります。ちいかわの告発は責任の所在をヒトハとフタバに押し付けて、問題の根本原因をうやむやにしかねない。統合政策の失敗の責任を一個人に押し付ける、その最後の一手を移民であるちいかわが引き受ける必要はないのです。
統合政策とは、外国人を社会の一員として受け入れていくための政策です。外国人に日本語の教育をほどこしたり、日本の法律・仕組み・習慣を説明したりすること、また日本人には外国人の正しい情報を提供し、外国人と交流する場を整え、外国人を歓迎する姿勢を涵養することを指します。(P188-199)他の先進国では政府主導の下で現場レベルの活動が行われるところが、日本では政府の政策と予算がない中で、労働力を求める地域社会が自発的に活動を始めています。そういった外国人に対する支援活動が「多文化共生」です。(P170-171)日本人と外国人がウィン・ウィンの共生社会を作るために、文化の違いを豊かさとして活かすことが基本的な理念になります。
逆に言えば、統合政策の失敗とは、住民と移民が文化の違いを争いの火種にすることです。その表象として『映画ちいかわ』では、ちいかわたちとセイレーンたちとの最終決戦において文化の衝突が起きます。セイレーンは人魚たちとのコーラスによって強化された歌声の能力で植物を操り、ちいかわたちを追い詰めます。対するちいかわたちはうさぎによるラップをモモンガとくりまんじゅうによる合奏で強化し、人魚のコーラスを乱すことでセイレーンの歌声の能力を弱めます。ここでは音楽文化の衝突がそのまま武力の衝突に変換されています。また、セイレーンを追い払うとどめの一撃となったのは、激辛唐辛子・キャロライナリーパーを混ぜたカレーをセイレーンに一口食べさせることでした。極端な辛口を追求したカレーは日本独自の食文化であり、それによってセイレーンを退散させるというのは、移民に自国の文化を強要することで選民しようとする態度に他なりません。ちいかわたちとセイレーンたちの戦闘は異なるルーツを持つ移民集団の争いですが、勝負の決め手となったキャロライナリーパーは島民である島二郎によって導入されており、やはりちいかわたちとセイレーンたちの対決は住民と移民という対立構造に回収されます。
では、セイレーンを島から追い払えれば移民問題は解決なのかというと、そうではありません。キャンプファイヤーでのちいかわの無言によって、統合政策の失敗の責任を誰が取るのかという問いは保存されています。残酷なことに『映画ちいかわ』は、別の島へと移動したヒトハとフタバをセイレーンが追いかける場面で終幕します。つまり、杜撰な統合政策によって酷い目に遭わされた個人が、統合政策の失敗の責任すら取らされるのです。このように集団の末端にその責任を押し付けるのは、地方自治体の自発的努力に移民政策の行方を任せる日本政府の姿勢に重なります。
おそらくヒトハとフタバはセイレーンに復讐され、「カラダピッタリのオリに入れて深くてくらーいとこで「永遠のいのち」を味わう」ことになります。そして恐ろしいことに、セイレーンは島に戻ってくるでしょう。舌は激辛に慣れるからです。そうすると、ヒトハとフタバの末路は島民の末路にもなりえます。統合政策が成功しないことには、セイレーンと島民の衝突は避けられません。個人の運命は島の運命に直結しており、それは日本の運命に還元することが可能です。
この「カラダピッタリのオリに入れて深くてくらーいとこで「永遠のいのち」を味わう」とは、日本が現在の自国像に固執して文化的鎖国を続けることで、移民を消費しながら国が徐々に弱っていくことを指すのではないでしょうか。島民が「いつまでも絶えることなく友達でいよう」と歌い続けるうちは、統合政策がうまくいくことはありません。統合政策とは今ある関係性を保全するだけでなく新たな繋がりを探ることだからです。島民たちは「友達になろう」と歌い直す必要があります。とすると、『映画ちいかわ』は、国を挙げて移民政策に真剣に取り組まない日本が孤独に衰退していく、と予言しているように私は思えるのです。
日本における移民問題はどんどんと進展していきます。現時点でどんな状況なのか、未来に向けてどんな手が打たれているのか知りたい方はぜひ『移民1000万人時代 - 2040年の日本の姿』(毛受敏浩、朝日新書)を読んでみてください。私たちはちいかわたちのように日本列島という島から船で脱出することはできないのですから。
※文中の(P18)などの数字は、すべて『移民1000万人時代 - 2040年の日本の姿』(毛受敏浩、朝日新書)の本文ページ数を表します。
2026-09-28
トークイベントも開催予定!
2026年10月9日(金)に「新書の学校 2026」トークイベント「日本史上もっとも有名な法『御成敗式目』の知られざる中身をひもとく」の開催が決定いたしました。今回、イベントにご登壇いただく方は、立教大学文学部教授の佐藤雄基(さとうゆうき)さんと、ップグリップ・倉田シウマイさんです。ぜひこの機会にご参加ください。
開催場所:ジュンク堂書店 池袋本店
PROFILE
倉田シウマイ
(リップグリップ)
マセキ芸能社のお笑い芸人。
京都大学出身。
2015年10月に相方の岩永とリップグリップを結成。
新書を紹介する個人YouTubeチャンネル「新書といっしょ」を運営するかたわら、お笑いライブや大学の講義で新書の魅力を広めている。

リップグリップ 倉田シウマイ
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